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zoom RSS 日本国憲法は日本人の声を元にGHQが仕上げてくれたようなもんで、押し付け憲法ではないじゃないか!

<<   作成日時 : 2015/08/08 11:26   >>

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 まあ、これでも見てくれ、白洲次郎もこんなもんかと思ったわ。
 そいや、彼は遥かに上ランクの文学者である今東光等作家仲間から「文壇の三ケチ」とさげすまれた獅子文六とゴルフをしたり、今東光に「『水上 勉』の『一休』だって、これまた水虫程度だあね」と書かれた「水上 勉」ともゴルフを楽しんでいたと言う。今東光の弟の今日出海とは親交があったみたいだけど。しかし、さすが兄貴の今東光とは文学や易学とかが遥かに上なんで付き合うことすらできなんだと思う。人間なんて英雄視したら「偶像崇拝」になるで。


『持丸長者』日本を動かした怪物たち 第三話《戦後復興篇》
広瀬隆著、ダイヤモンド社、2007年7月26日初版 第一章より
◆七人の侍、新憲法制定に立ち上がる
これらの政党が、それぞれ憲法草案を打ち出すことになるが、明治時代の大日本帝国憲
法に代って日本国憲法が誕生しなければ、戦後の経済復興がなかったので、本書の主眼で
ある商業や経済復興の視点から、ここで一項をもうけて説明しておかなければならない。
日本国憲法は、一時的に誕生したものではなかった。日付の順序にしたがって、敗戦の年、
四五年におけるいくつかの大きなグループの動きを追うと、次のようになる。
まず初めに声をあげたのは文化人グループであった。敗戦翌月の九月二十七日、辰野隆
《ゆたか》・正宗白鳥・山田耕筰《こうさく》・山本実彦・村岡花子たちが日本文化人連
盟発起人会を開き、文化の民主主義化を促進するよう会合を持った。
ここに参加した発起人メンバーを見ると、フランス文学者の辰野隆は、資本主義の牙
城・日本銀行本店や東京駅の建築で知られる日本近代建築の先駆者・辰野金吾の息子であ
った。戦時中に一貫して戦争に非協力的態度を貫いた自然主義の小説家・正宗白鳥は、甥
の正宗猪早夫《いさお》が、戦後経済を動かした日本興業銀行頭取・中山素平《そへい》
の右腕となって、のち中山を継いで頭取となった。正宗白鳥はこのあと、戦時中に軍部に
抵抗を続けた反骨ジャーナリスト桐生悠々を世に紹介する口火を切った。作曲家の山田耕
筰は、「からたちの花」、「この道」、「赤とんぼ」、「七夕」、「ペチカ」、「待ちぼ
うけ」で知らぬ者がない。戦時中に「壮烈特別攻撃隊」や「米英撃滅の歌」まで作曲した
が、いまや民主化の先頭に立とうとしていた。山本実彦は先に登場した日本協同党の党首
で、大正デモクラシーの自由主義を主導した東京毎日新聞社社長である。チャールズ・デ
ィケンズの『クリスマス・カロル』や女流作家ウィーダの『フランダースの犬』の翻訳で
有名なのが村岡花子で、クリスチャン賀川豊彦一族の彼女も戦争中には軍部協力者だった
が、今では反省していた。
大原孫三郎が創立した大原社会問題研究所所長だった高野岩三郎が、十月二十九日に、
この日本文化人連盟発起人会に参加して、これが日本国憲法を生み出す文化人の気運を生
み出す第一歩となり、十一月十三日に連盟が発足した。
高野岩三郎は、戦時中に逓信省や情報局に支配されて侵略戦争に狂奔した日本放送協会
(NHK)で、戦後初めて民間から選ばれて会長に就任し、放送ストライキの渦中で、労
働組合と、吉田茂らの保守政治家とのあいだに立って紛争を解決しながら、日本復興で最
大の動因となった放送界民主化の大役を果たすことになる人物である。
長崎県出身の岩三郎は、わが国最初の近代的労働組合や消費者組合をつくった明治期の
労働運動先駆者・高野房太郎の弟で、岩三郎の娘が作家の野上弥生子《やえこ》の息子と
結婚する関係にあった。弥生子の生家・小手川《こてがわ》家は、大分県臼杵《うすき》
のフンドーキン醤油の創業一族として高名な豪商で、渋沢栄一の一族ともたびたび姻戚関
係を持っていた。そもそも高野岩三郎を所長に招いた大原社会問題研究所は、倉敷紡績社
長の大原孫三郎が設立したもので、ゴーギャン、ロートレック、エル・グレコなど印象派
を中心に、ロダンの彫刻、棟方志功の版画などの大原コレクションにより、わが国最初の
西洋美術館・大原美術館を設立した岡山県第一位の持丸長者であった。その孫三郎の研究
所が、マルクス経済学の中心となって先進的な大内兵衛や森戸辰男などを輩出したのだか
ら、たいした豪商である。倉敷紡績から生まれたのが、現代のクラレとクラボウであり、
これらの人間関係は、商業界が強く民主化を求めた当時の気運を代表していた。
これに続いて動いたのが近衛文麿グループであった。四五年十月四日に第二回目の近
衛・マッカーサー会談がおこなわれ、マッカーサーが憲法改正によって自由主義を取り入
れる必要性を近衛に申し伝えた結果、近衛のもとで、憲法学者・佐々木惣一博士、高木八
尺《やさか》博士、ジャーナリストの松本重治などが、アメリカ国務省と連絡を取りなが
ら憲法草案の作成に着手した。ところが、戦争犯罪者の近衛文麿が憲法作成にかかわって
いることに内外から痛烈な批判が起こり、ニューヨーク・タイムズが、「近衛が憲法を起
草する適任者であるというなら、ナチスのゲーリングを連合国のトップに据えるべきであ
る」と酷評したのを受けて、十一月一日にはGHQが「近衛に憲法改正を頼んだ覚えはな
い」と声明して、自ら近衛との関係を断ち切った。十一月二十四日に佐々木惣一草案が発
表されたが、十二月六日にGHQがA級戦犯として近衛文麿逮捕命令を出し、十二月十六
日に近衛が服毒自殺を遂げたため、この憲法草案は雲散霧消した(近衛に擬せられたナチ
ス・ドイツ国家元帥ヘルマン・ゲーリングも、ニュールンベルク裁判後、死刑執行二時間
前の四六年十月十五日に服毒自殺した)。
第三の動きは、松本烝治グループであった。四五年十月十一日に幣原《しではら》喜重
郎首相・マッカーサー会談がおこなわれ、新任総理大臣の挨拶に来た幣原に対して、マッ
カーサーが憲法の自由主義化と人権の確保を口頭で要求したのである。この結果、十月二
十五日に国務大臣・松本烝治を委員長として、政府の憲法問題調査委員会が設置されたが、
単なる「調査」委員会であり、憲法改正の意志をまったく持たないグループであった。
第四の動きが、最も重要な鈴木安蔵グループであった。十月十五日に憲法学者の鈴木安
蔵が自由憲法の必要性について三日間にわたって講演し、新聞に連載されたことがきっか
けとなって、十一月五日に先の文化人グループの高野岩三郎のほか、杉森孝次郎・室伏高
信《むろぶせこうしん》・岩淵辰雄・馬場恒吾《つねご》・森戸辰男が加わって、この七
人が憲法研究会を東京で結成した。彼らは、言論の自由、男女平等、生存権、平和思想な
ど、現在われわれが生きる民主国家の屋台骨となる思想を骨子として、具体化のための議
論を開始した。たびたびの議論を経て、十二月二十五日に鈴木安蔵が執筆して憲法草案を
完成し、十二月二十六日に鈴木安蔵の憲法草案を憲法研究会が最終案として確定した。骨
子は、「日本国の統治権は国民より発する。国民感情を考慮して天皇制廃止には踏みこま
ないが、天皇を儀礼的存在に後退させる」とし、十二月二十七日に憲法研究会の「憲法草
案要綱」として発表したところ、十二月二十八日の毎日新聞一面に鈴木安蔵草案が掲載さ
れ、これがGHQの憲法草案の土台となったのである。
第五の動きとして、十一月八日、政党のトップを切って日本共産党が第一回全国協議会
を開催し、新憲法の骨子を決定。十一月十一日には、共産党が人民主権の憲法草案「新憲
法の骨子」を発表した。以後、各政党による憲法草案づくりがはじまったが、全体に、各
政党の草案づくりは時期的にも内容的にも、非常に後れたものであった。
つまり、四五年内に生まれた憲法草案は三つだけで、共産党案が最も早く、続いて佐々
木惣一草案が出て、翌月に憲法研究会草案(鈴木安蔵草案)が出た。しかし共産党は天皇
制の廃止を求める行動に出たため、当時の日本の世情では、支持される可能性が低かった。
マッカーサーもその世論を考慮して、占領政策を容易にするため天皇制維持による方針を
固めていたので、共産党案には最初から育つ芽がなかった。佐々木惣一草案は、自由主義
者の高木八尺博士や、ジャーナリストの松本重治も議論に加わったので、民主化について
は一部に進歩的な面を含んでいた。高木博士は、実父が高名な英学者の神田乃武《ない
ぶ》、養祖父が幕臣時代からの経済学者として地租改正に取り組んだ神田孝平《たかひ
ら》で、平和主義者の柳宗悦《むねよし》らのグループにあったし、関西財界の重鎮・松
本重太郎の養孫にあたる松本重治も現代まで国際親善と平和活動に従事してきた人物であ
る。しかし、天皇の統治権を維持するという佐々木の封建思想がひどく時代後れで、近衛
の自殺と佐々木の頑迷さのため、この草案は完全に空中分解した。残るは年末に登場した
鈴木安蔵草案しかなかったのである。
アメリカは、十二月六日にGHQの弁護士で民政局法規課長のマイロ・ラウエルが「日
本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」を作成していたが、日本人の動きを見
て、大晦日に連合軍通訳翻訳部(ATIS=Allied Translator and Interpreter Sectio
n )が鈴木安蔵ら憲法研究会草案の翻訳に取りかかったのは、当然であった。
あと一つは、アメリカではない連合国グループが動いていた。十二月にモスクワで連合
国のアメリカ・イギリス・ソ連の三国外相会議が開催され、戦争に敗北した日本を連合国
が占領するにあたり、アメリカ主導のGHQだけに憲法など日本の改革を任せることに反
対していたからである。そこで十二月二十六日、日本を管理するための政策機関として十
一ヶ国で構成される極東委員会を翌年二月二十六日に発足させることを決定し、翌日モス
クワ宣言として発表した。十一ヶ国は、ニュールンベルク裁判の裁判国アメリカ・イギリ
ス・ソ連・フランスの四ヶ国に、オランダ・オーストラリア・カナダ・フィリピン・中国
(中華民国)・インド・ニュージーランドが加わり、GHQは極東委員会の決定に従わな
ければならないとした。
こうして四五年を送り、明けて四六年以後が、有名な、世に論じられてきた憲法制定の
議論だが、すでにこの段階で、現在まで戦後の日本経済と平和を守ってきた民主的憲法の
骨格は決まっていたのである。
それを決定した鈴木安蔵グループの七人は、どこから出てきたか。
実は、七人の侍のなかで最も若いのが、全員のとりまとめをおこなった鈴木安蔵であっ
た。福島県生まれの安蔵は、若くして治安維持法違反で検挙され、二十代で投獄された怒
りから、憲法学を研究するうち、大正デモクラシーの指導者・吉野作造と出会って世界各
国の憲法資料を提供され、屈指の憲法学者となった。そこから、明治初期に高知県で自由
人権運動が興った歴史を調べるうち、植木枝盛《えもり》らの先覚者が主権在民の憲法草
案を主張して、人民の抵抗権や革命権まで明記していたことを知った。そしてその源が、
同じ土佐の中江兆民によって翻訳されたジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』や
『民約論』などであることを学び、安蔵は世界中の思想を広く身につけたのである。
戦後、安蔵のもとを訪れたのが、戦前からの知己ハーバート・ノーマンであった。長野
県の伝道師として地元で愛されたカナダ人ダニエル・ノーマンの息子として軽井沢で生ま
れ、日本をよく知るハーバートは、戦後にGHQの依頼で来日し、占領下の日本の民主化
に取り組んだ。そのなかで、日本の元禄時代、早くから階級差別の撤廃と、男女同権を唱
えた学者・安藤昌益《しょうえき》を日本人に紹介するほど、日本史に目が肥えていた。
安藤昌益が秋田藩に生まれたのは、ルソーよりわずかに早く、大石内蔵助《くらのすけ》
たち赤穂義士が切腹した年であった。昌益は「浅田飴」の処方生みの親となったすぐれた
医学者でもあり、青森県八戸《はちのへ》に住んだ驚くべき人権思想の先駆者であった。
その意味で、昌益の思想も、日本国憲法の底流に脈々と息づくことになった。
七人の侍を、以下、高齢な順に紹介する。
二人目の大原社会問題研究所所長・高野岩三郎は、先述のように、戦後民主化運動の先
頭に立った文化人グループ「日本文化人連盟」に参加していたので、鈴木安蔵草案には、
多士済々《たしせいせい》の文化人の考えが反映されることになった。高野岩三郎は、天
皇制廃止論者で、大統領制を主張した。
三人目の馬場恒吾《つねご》は、岡山県生まれで特に閨閥がなく、明治時代末期からジ
ャーナリストとして長くアメリカに滞在して、帰国後も国民新聞を本拠に、憲政の神様・
尾崎行雄と共に軍部を批判して軍縮同志会を結成し、普通選挙法の即時実施を求めるなど
新聞・雑誌に健筆をふるってきた。特に、五・一五事件によるファッショ化を憂える「日
本よ何処へ行く」の連載記事が光り、日中戦争の収拾のために論陣を張ったが、真珠湾攻
撃後に政府から弾圧を受けて沈黙を余儀なくされてきた。戦後は、戦争犯罪者として巣鴨
に送りこまれた正力《しょうりき》松太郎の後任として読売新聞社社長に選ばれ、読売争
議後の再建に尽力したが、のちにGHQ側について労働組合幹部・鈴木東民《とうみん》
を社外に追放して、レッドパージに手を貸す。
四人目の杉森孝次郎は、徳島県第四位の豪商・後藤田一族の七条家の娘を妻とし、県内
第一位の藍の豪商・西野嘉右衛門ともつながっていた(後藤田正晴との姻戚関係は不明)。
彼自身は、静岡県小笠郡出身で、語学に長じた早稲田大学教授として、広く国際文化を交
流する海外との活動に多くの功績を残してきた。
五人目の森戸辰男は、広島県福山の武家の後裔で、徳川義親たちが社会党を結成した時
に参加し、このあと社会党・片山哲内閣〜民主党・芦田均内閣で文部大臣をつとめて、教
育の民主化を進めた。森戸も大原社会問題研究所のメンバーだったが、妻は丸三証券会
長・長尾秀一の姪であった。のちにくわしく述べるが、戦後最大の経済的な民主化となっ
た「財産の平等化」の牽引力となるのが、財閥解体と、その保有証券を引き受けて大活躍
するこれら証券会社であった。
六人目の室伏高信《むろぶせこうしん》は神奈川県生まれで、戦時中は軍部を批判して
小田原に隠棲した評論家であった。右の杉森孝次郎のほか、敗戦を目前に控えてこの世を
去った反骨のジャーナリスト清沢洌《きよし》、敗戦後に獄中で惨死してGHQの民主化
を急がせた三木清と共に評論家協会を設立し、雑誌「新生」を発刊して、馬場恒吾ら憲法
研究会のメンバーの寄稿を掲載し続けてきた男だ。清沢洌が太平洋戦争中に書いた軍人批
判日記は、戦後『暗黒日記』として公刊され、大きな反響を呼んだ。
最後の七人目、宮城県生まれの岩淵辰雄は、日本敗戦を目前にして、吉田茂と共に「共
産主義化の阻止と天皇制の護持」を目的に天皇に対する和平工作をおこない、そのためマ
ークされて憲兵隊に拘束され、東京空襲のおかげで吉田茂と共に釈放された男であった。
したがって、思想的にはこれまでの六人とまったく相容れない人物で、戦後は自分が側近
として仕える近衛文麿に「憲法を変えて天皇に戦争責任がないことを明文化しないと天皇
制護持ができない」と吹き込み、マッカーサーのもとに近衛を走らせたのだから、岩淵の
改憲論は、動機がまるで違っていた。官僚嫌いの彼は、このあと、読売新聞政治記者から
主筆となって、連日のように戦後の国民的議論を主導し、報道界のボス的存在となった。
このように、かなり毛色の異なる七人で構成されたのが、憲法研究会であった。
四六年が明けて、急な動きに泡を食った日本政府の松本烝治が、ようやく憲法改正私案
の起草を開始し、憲法問題調査委員の宮沢俊義らが加わったが、国民の主権さえも眼中に
ない、民主化とほど遠い封建的憲法をこしらえたのである。
四六年二月一日の毎日新聞スクープでその内容を知ったGHQが驚きあきれて、マッカ
ーサーが民政局に、急いで憲法モデルを作成するよう極秘に命じることになったのは、自
然の成り行きであった。民政局メンバーは、国連憲章と鈴木安蔵草案を土台にして、アメ
リカ憲法、ドイツのワイマール憲法、フランス憲法、日本の各政党の憲法草案など、あり
とあらゆる資料を並べて議論を重ねた。しかし憲法学者でもない彼らが、短時日での作成
を命じられたため、結局は鈴木安蔵草案を骨格にして、GHQ草案を作成したわけである。
それを知らない日本政府が松本試案をGHQに持参すると一蹴され、GHQ草案を突きつ
けられ、以後はよく知られるように、徹夜の書き換え作業にかかった、という次第。情な
いのは、日本の国民に自由を与えようとするそのGHQ草案に吉田茂と白洲次郎が口を出
して、民主化を妨害し続けた態度である。
最終的には四六年三月五日、GHQとの交渉によって大幅に修正された日本政府の確定
草案が採択され、翌六日に緊急記者会見で発表されたのである。そこには、鈴木安蔵たち
が求めた通り、主権在民が明記され、天皇制は維持されるが天皇を単に国家の象徴とし、
天皇の統治権が否定され、GHQがほかの戦勝国に天皇制維持を納得させるために、国際
紛争を解決する手段としての戦争放棄が規定されていた。マッカーサーがこれを全面的に
承認する声明を発したことは言うまでもない。
ところがその後、連合国の極東委員会が、「これで決定するのではなく、日本の国民が
憲法改正に自由に参加し、議会を経て決定しなければならない」と、これまたまったく当
然の勧告をおこなった。それを受けて議会でたびたびの議論が展開され、そこに国民が
数々の意見を寄せ、怪しげな密室の小委員会が修正案を出すなどしたが、土壇場になって、
極東委員会が普通選挙制と、総理大臣と国務大臣は文民でなければならないという重要な
条項の追加を求めたおかげで、議会が最終的にこれを採り入れ、「帝国憲法改正案」つま
り現在の「日本国憲法」が修正可決されたのであった。四ヶ月におよぶ議会を経ての成果
であった。日本の指導者は、マッカーサーが言った通り、「十二歳の子供」であった。
憲法改悪の動きが出てきた最近になって、鈴木安蔵草案の存在意義がマスメディアで報
道されるようになったのは好ましいことである。だが、それが「今発掘された新事実」で
あるかのように報じられるのは、まったくの嘘である。広く日本の文化人の考えを採り入
れた憲法研究会草案をもとに、GHQ草案が生まれたことは戦後すぐに日本史の書物に書
かれ、古くから知られた事実である。その存在を、知らなかったとすれば報道人として恥
ずかしいことであり、実は故意に無視して、「GHQの押しつけ憲法」という世論を生み
出してきたのが、近年の報道界なのである。
しかし鈴木安蔵らの憲法研究会草案にも欠点があり、それをGHQ
のブレーンと極東委員会が補い、議会で広く国民の声を採り入れたものが、四七年五月三日に施行された日本
国憲法であった、と言うのが正しい。憲法の口語化に尽力したのは、『路傍の石』を書い
た小説家・山本有三※であった。そもそも、四五年末当時の内閣情報局による世論調査で、
国民の四分の三という圧倒的多数が憲法改正を強く要求し、その意見として天皇制の改革、
貴族院の廃止、国民主権、自由の保障などを求めていたのだから、日本の国民の情熱の結
晶が新憲法であった。
GHQが押しつけた憲法、と呼ぶのは
、ただ白洲次郎たちがその国民の意志に無駄な抵抗をし続けた、時代錯誤の恥ずべき何日間かの行為を指しているにす
ぎない


※山本有三:東大生が文壇に問う同人誌「新思潮」第三期での出身
 川端康成・今東光は、この「新思潮」第六期の出身である。
 (今東光は東大生ではないが、川端の親友で、モグリだが、東京帝国大学で本物の東大生以上に、文学と
中国文学に打ち込み漢文では東大生に教えるほど勉強していたし、川端康成を誠心誠意支えていた。
それがあって、特別に「新思潮」に入れてもらえたと言う。1930年天台宗に入り、1946年再婚
、1957年直木賞受賞でカムバック。死の4年前から、「極道辻説法」執筆。1977年示寂)

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